睡眠中の体験である“夢”の意義について、たくさんの科学的なアプローチがおこなわれています。
脳科学の研究からは、夢は脳のなかで起きている現象のひとつであり、夢をみることで覚醒時の情報を整理したり消去したりしているという説が有力です。
いっぽう、いにしえの昔から、人々は夢を大切にしていました。
夢は万人に共通の体験でありながら、超自然的なところに源を持つもので、そこに大いなる叡智が宿っているという揺るぎない前提がありました。
あらゆる文化圏に、夢から得た情報やインスピレーションを個人や共同体の重要な局面で活用したという記録が残されています。
近代では夢は個人の深層心理の表出とされ、分析し理解することで精神疾患の治療に役立てられました。
現代の心理療法においても夢の内容について詳細に話し合われることがありますが、研究対象として夢の内容を扱うのは困難なため、事物の出現頻度など統計的検証の可能な部分に限定されることが多いようです。
現在のところ「夢とは何か」という問いにはこのように観点の異なる複数の答えになるでしょう。
夢はこころの最も深いところから送られてくるメッセージです。
潜在意識からだけでなく、そのもっと奥深くにある部分から届けられます。
そこをユングは“集合的無意識”と呼び、個人を超えた普遍的なイメージが集積する領域と考えました。
ケイシーはその概念をさらに拡大して“超意識(superconscious)”としています。
“超意識”の領域は空間や時間などの物理法則を超越しており、誤解をおそれずに言えば、神や宇宙と呼ばれるものとも繋がっています。
夢の意味を深くひもといていくと、古来ずっと信じられてきたような、そこに宿る叡智を再確認することになります。
唯物論的なアプローチではあまりにもったいないと感じてしまうのです。
宇宙は広大であり、同じように人間の“こころ”も豊かで深遠です。
そこから生まれてくる“夢”というもの。
現代の“科学的”な言葉で説明できなくても、その意義が失われることはないと思っています。
夢は自分自身と、自分の人生を理解するのに最善の手段です。
インスピレーションを得ることも、問題解決に役立てることもできます。
自分が何をすればよいか、どちらを選択すればよいか、変えるべきことをどう変えたらいいかを具体的におしえてくれます。
もっと細かい微妙な部分についても現実的・客観的な視点で、たとえば
そのときの自分にいちばん必要な情報を知らせてくれます。
つまり夢は、誰よりも自分のことをわかってくれる、信じられるコーチのようなものです。
すべての人にこのコーチがいて、人生の途上で迷ったり弱気になったりしたときにも、決してぶれずに、あきらめたり見放したりすることなく傍らについていてくれるのです。
人は自分本来の生き方ができていないときに病気になります。
誰もが生まれる前に、この世界で体験したいと願ったことがあり、それを“たましいの目的”と呼んでもいいと思います。
病気とは、身体に不具合を来たすことをつうじて“たましいの目的”を自覚する、あるいは、それまでの生き方よりももっと、たましいの目的に適った生き方、ほんとうに自分が喜ぶ生き方に転換していくようにすすめられているということなのです。
病気はつらいものですが、そこにもじつは目的と大きな意味があるのです。
それを知るために夢分析の手法を用います。
夢には深層心理があらわれる、ということは共通認識と言ってもいいでしょうが、それだけでなくその人すべてがあらわれると考えられます。
夢の源である“超意識”はすべてと繋がっているからです。
対人関係、思考パターン、生活習慣、体調、過去の記憶、ふたをしてきた感情・・とくに言語化せずに押し込めてきた感情は病気と関係しています。
つきつめて考えてみれば、“たましいの目的”に沿って生きているかどうか、夢がおしえてくれるのはすべてそれに尽きると言ってもいいでしょう。
病気になった原因を考えると同時に、病気の目的と意味に気づくことこそが治療になります。
まず自分自身を理解すること、そのためのツールとして夢分析が役に立つのです。
夢はありのままの自分の姿を伝えてきます。成長のためには自分を受け入れる必要があるのです。
しかし人は自分を見ることに抵抗があるので、夢では象徴的な表現に変換されています。
このように自分の姿を見せられることがもっとも多いので、まずは現在の自分自身に関するものとして受け取ってみましょう。
もちろんそれだけでなく夢には過去や未来のこともあらわれます。
世界情勢や災害に関すること、霊界通信のようなこと、そうした夢もじっさいにありますが、まずは個人的なものととらえるほうが大きくはずすことはないようです。
よい夢・わるい夢、というものはありません。
受け取った感情が甘美なものであれ恐怖や嫌悪であれ、すべてに意味があり、そのとき必要なメッセージなのです。
夢はこころの最も深いところ“超意識”から意識できるところ(顕在意識)まで届けられます。
顕在意識は広大な“こころ”のほんの一部分であり、よく氷山の一角にたとえられます。
超意識から顕在意識に届くまでのあいだには潜在意識を通り抜けなければなりません。
潜在意識にはその人が体験してきたことすべてが貯蔵されており、言動や習慣は潜在意識に支配されていると言ってもいいくらい、その人を規定しています。
幼少期のこころの傷も、その傷とどのように関わっているかも、複雑に絡み合った状態でそこに存在しています。
こころの傷はとてもつらいので、しまい込んで思い出すことのないようにしていたり、何かべつの方法でごまかしたりしているのが普通です。
そのうちにそんなものは存在しないかのような生き方が身についてしまいますが、潜在意識のなかの傷が消えたわけではないので、思い込みを形成したり特定の刺激に反応したりしながらその人に影響しつづけます。
本人にしてみれば、いつもこうだ、どうしてこうなってしまうんだろう、というようなよくわからない生きづらさ、不自由さを抱えることになるのです。
成長とはその傷を超えていくことであり、夢はそれに気づかせるように語りかけてきますが、そのまま提示しても容易には受け取れません。
直視するのはあまりにつらいもの、現状維持のために都合がわるいものだったりするので、潜在意識はどうにかその人が受け取れるように加工をほどこし、いわば直球でなく変化球を投げてくるのです。
これが夢の擬装工作であり、フロイトが言う“夢の検閲官”と同じようなものです。
そのため夢はなんだか摩訶不思議、いっけん意味不明な内容になっているのですが、その変なところにこそ、重要なメッセージがあるのです。
ぜんぜん夢を見ない、と言う人がいますが、みないわけではなく覚えていないだけです。
インパクトの強い夢は容易に覚えていられますが、それ以外はたいてい、目覚めてすぐにバタバタと活動を始めるにつれて意識の彼方に消えていってしまいます。
可能であれば朝起きてから「夢うつつ」のような半覚醒状態の時間をとることで意識に定着しやすくなります。
夢はもともとイメージの状態で存在しているので、言語化する作業も必要になります。
夢に意識を向けるためにも、枕元にノートとペンまたはスマホを用意しておき、起きたらすぐに思い出せる内容をそのまま記録します。
時間がなければキーワードだけでも。
継続して記録するならば振り返ってわかるように日にちとタイトルをつけるとなおよいです。
前の晩に、知りたいことを問いかけてもよいでしょう。
夢は、意味がわからなくてもよいのです。
あまり解釈に走ると、かえって大切なメッセージを見失うこともあります。
まずは追体験するように振り返って、夢のなかの情景をもう一度味わってみることです。
“夢”という体験をじっさいにしているわけで、そのなかで思考よりも感情に強くはたらきかけることが夢のもたらす効果のひとつでもあるのです。
夢をみているレム睡眠のあいだだけは、脳内のストレスホルモンがなくなっているという報告があります。
夢をみるということ自体が、癒しの効果をもたらすと考えられるのです。
「夢もみないほどぐっすり眠る」のもよいですが、夢をみることを否定的にとらえる必要はまったくありません。
気になる夢について、印象的な場面を絵に描いてみます。最近のものでなくとも構いません。
その夢から得られるメッセージを、対話とイメージを拡げることからひもといていきます。
以下の説明は、あくまでも多くみられる基本的なもので、絶対的なものではありません。
夢に出てくる事物にはその人ならではの意味をもつ場合もあるので、最終的には自分の判断にまかせられます。
読み取った内容がしっくり感じられないときは、しばらく保留にしておきましょう。
考え続けること、次の夢と合わせて考えることで、その意味に気がつく時が来ます。
排泄する場であるトイレは、自分が受け取って消化吸収した後の不必要なものを手放すことをあらわしています。
スムーズにできるにこしたことはありませんが首尾よくいかないときには、過去にしがみついていたり、なかなか手放せないでいることの言い訳をしている場合があります。
現実を生きることに実感が持てないでいると、上空を気持ちよく飛んでいることがあります。
地に足がついていない、現実逃避の状態をあらわすこともあります。
爽快だったり、得意になっていたり、恐怖を感じたり、そのとき自分はどんな状態にあるでしょうか。
また、睡眠中じっさいに、たましいが空中浮遊の旅をしてくることもまれにあります。
死はすべての終わりではなく、再生の前にかならず通過する段階です。
新しい自分を生きようとする際にこれまでの生き方を象徴する誰かの死をみたり、親の生き方を超えていくときに親の死をみることがあります。
または、自分の特性が死んでいるような状態という場合もあります。
問題から逃げているということ。
その問題に向きあうことを怖れているとき、うまく歩けない場面をみたりします。
何に追われているか、何から逃げているかをすでに自覚している場合でも、象徴的に表現されていることでべつの見方ができることがあります。
少しずつでも自分の態度が変われば夢の結末も変わってきます。
セックスには統合という意味があります。その人の好ましい部分を取りいれることをあらわすので、同性間、近親間でもあり得ることです。
誰でもこころのなかに男性的な部分(男性性)と女性的な部分(女性性)を持ち合わせており、どちらがよいというわけでなくそれぞれがうまく機能するのがよいのです。
セックスの相手が異性でも同性でも、その性の特質をより深く受け入れることを勧められています。
こころにも身体にも、食べるという行為によって栄養がもたらされ、成長につながります。その食べものに象徴されるものごとを考えてみましょう。
それを食べているか、残しているか、多すぎるか、少なすぎるか、誰と食べているか。
または直接的に、その食べものがその人の体質に合っているかいないかを指摘されることもあります。
その病気に罹っているということではなく、あくまでも象徴的な表現ととらえます。
どの臓器にどんなふうに支障を来たしているか、そこから問題点や直したほうがいい点を見出すことができます。
東洋医学的な病因論やチャクラと対応させることも理解するのに役立ちます。
病気をどのように扱っているかについても行動パターンがあらわれます。
現代の医学のなかでは夢をたくさんみることや悪夢をみることは、取り除くべき不快な症状としてとらえられていますが、否定する必要はありません。
衝撃的な夢は、それだけ強く訴えかけてくるものがあるからです。
じっさいにあった過去のいやな場面をみるのは、その事実を受け入れられるようになるために少しずつ働きかけられていると考えられますが、あまりにも恐怖感が強い場合は専門的な治療が必要なこともあります。
学生時代に学び残したことがいまになって浮上してきているのかもしれません。
試験でどんな状況にあるとしても、成長のためのチャンスということです。
入学試験であれば、必要とされる条件を満たしているか自分に問いかけています。
卒業試験であれば、問題を乗り越えていくための最終段階にあります。
向き合うことから逃避している状態です。
避けているのはその人自身の問題か、あるいは大切な人との関係かもしれません。
パートナーのことを指しているか夢をみた自分のことなのか、文脈によってどちらもあり得ます。
誠実でない態度でものごとに相対しているということです。
時間に追われる生活をしているので、つねに焦りを感じています。
自分が取り残されてしまうのではないかということも心配しています。
でもじつは時間というものは必要なだけ、十分にあるものなのです。
もしくはその用事に象徴されることが、本心ではそこまで大切ではないのかもしれません。
妊娠は祝福された新しい命を授かることです。新しいアイディアや生き方のヒントが浮上してくることなので、男性であっても妊娠の夢はあります。
興味深いことに妊娠週数はアイディアの現実化の程度と比例します。
より自分らしい新しい生き方の提案なので、出産として形になる、その時まで大切に育んでいきましょう。
歯には咀嚼という機能があります。
この世界で経験する出来事はすべて学びなので、しっかり咀嚼して取り込んで、こころの栄養にしていきたいものです。
その経験を受け入れる最初の段階ではたらくのが歯なので、うまく分析・理解できない状態にあると抜けたり欠けたりします。
“力”というものが人生にとって必要と考えています。どんな力をどのように行使したいのでしょうか。
それはあなたの霊性の向上に意味があることでしょうか。
その権力はこの世界のごく一部でしか通用しないものかもしれません。
上昇と下降によって目的階に行こうとするのがエレベーターです。
現代的で極端な移動手段であり、到達までのプロセスは重視されません。
そうした生き方に息苦しさや困難を感じるようになっているのに、自分ではどうにもできないと思っていませんか。
脱出のために何かできることがあるはずです。
社会のなかでの自分がやるべきと思うことを進めているのですが、突っ走り過ぎて、あるいは無理をして心身に負担がかかってきています。
コントロール不能になってしまう前の警告と受けとめましょう。休止して冷静に現状把握をする必要があります。